日本刀の歴史 新々刀編
日本刀基礎知識集 日本刀の歴史(古刀編) 日本刀の歴史(新刀編)
新々刀期 明和元年~慶応3年(1764~1867年)
この時代の刀剣の特徴は無地風でべっとりとした鉄でできており新刀とは異なる。
新々刀の語源
広義では新刀の範囲に入るが簡素化された鍛刀法を憂い刀工が砂鉄から製作した鎌倉時代の鍛刀法に戻るべきだと復古を目指した水心子正秀や南海太郎朝尊が活躍した文化文政時代を中心として新刀と区別するようになった。
新々刀鍛冶の特徴
この頃の鍛冶は古刀期の鍛冶のように一伝法をこなすのではなく、一応、五カ伝すべてを心得ていて注文に応じて作刀していた。旧来の掟に新刀鍛冶以上にとらわれず自由に作刀している。また古作の写しが多く、短刀の製作も行うようになった。
新刀と新々刀の違い(新々刀の特徴)
- 新々刀の刀工は古作の上位作を狙って写しを行っているので新刀より姿が良いが、鍛刀法を掟を守っていないのでおかしいものである。よって本科ではなく写し物であるとすぐにわかる。
- 新々刀の刃文は沈み気味があり弱く見えるて新刀のようにはっきりしないが、よく見ると際立って堅い刃が1箇所はあるものが多い。
- 新刀は焼き出し直刃で帽子が乱れ込まないが、新々刀は古刀を写しているので焼出しからすぐに刃文が始まり帽子も古作同様に乱れ込んでいる。
- 新々刀は新刀よりさらに沸が荒くなり冴えない沸が多く付く。相州上位写しの作に多く見られる金筋などは特に作為的で嫌味が強いものである。
- 新々刀には新刀にはあまり見られない短刀が多く製作されて異風なものも多く作られた。
- 一伝法をこなすのではなく、一応、五カ伝すべてを心得ていて注文に応じて作刀していた。旧来の掟に新刀鍛冶以上にとらわれず自由に作刀している。
- 新々刀時代には再び南蛮鉄の輸入や製鉄技術の進歩、交通網整備によって原料入手が容易になったが全国的に均一化がいっそう進んだ。肌は無地風になって綺麗だが変化がない。
- 新々刀は匂口が霞んでいて白ける。しかし焼は匂出来ではなく沸出来である。これは焼き入れ技術の低下が原因であろう。
- ただし以上の考え方はやや前時代的となっており、豪壮な姿と健全さで支持を集めており大きく評価が見直された。
新々刀前期(1764~1803年)
飢饉や尊皇論の高まり外圧等により世相不安になり刀の注文が増加しだす。そして水心子正秀が山形より江戸に移り住んで鍛刀法は鎌倉時代の方法に戻るべきと復古鍛刀法を提唱して多くの共感をてて優秀な刀工を育成し数多く輩出する。京都では南海太郎朝尊が同じく復古を提唱し多くの門人を育てた。
この時代は優しい姿から身幅が広く、切っ先も延び強さがます。また新刀弁疑で助広を名人であると賞賛したので助広写しが全国に流行し盛んに行われた。正秀すら初期には助広写しを行っているほどである。
地鉄は新々刀のものである。短刀が再び現れてくる。正繁等が多くの門人を育てた。
新々刀後期(1804~1867年)
文化、文政はあまり変化がないが、水心子正秀が文政9年に復古主義を提唱し、鎌倉、南北朝の姿が流行し特に天保になると慶長新刀写しも盛んに行われたがこの時代に作られた物のは重ねが薄くスマートである。
天保になるといよいよ動乱期に入った。短刀も製作された。古作を狙ったものもある。刃文は相州、備前物が主流となる。維新が近いころは勤皇刀が出現する。清麿とその一門が活躍する。